はなのはなし


そこらかしこで躑躅が満開ですね。もう傾き始めているのかな。小学生の時は家の近くに咲いてる躑躅の蜜を吸ったりして遊んでいました。と思ったらこんな記事があったよさすがだな人間やることはみんな同じだぜ
あと他にもすごく小さい花の蜜を吸って唇がかぶれたこともあったんですけど花の名前が思い出せない。なんだっけなー。でも本当に躑躅の蜜はおいしかったなあ。
あと今の家に越してきてからこんな花を見かけるようになって、私はこういう形の花は躑躅の花しか知らなかったのですげえ躑躅が結婚式のブーケみたいに咲いてる!と思いこんでいましたが今きちんと調べたらツツジ科の石楠花でした…そうですか…初めて見たんだぜ…

こういう、郊外の中でありながらもきちんと植物が沢山植わっている場所っていうのに私は今まで行ったことがなくて、普通に団地での暮らしだったから、毎日毎日近所の家を通って庭に植えてある植物を見て回るだけでとても新鮮で豊かな体験をしたと感じることが出来るのに最近気づきました。自転車を扱ぐ時、窓を開ける時、空を仰ぎ見る時、夜の街灯、今まで感じたことのないもの。越してくる数週間前にここでレイハラカミを聴いて妙なまでに高い協和を覚えたのは何だったのだろうか。

私は所謂郷愁系と言われるエレクトロニカ環境音楽の類を好んで聴くのですが、彼らの演出する、抒情的日常を自らの「家具」とする、感覚には同調出来ずにいます。抒情は環境によって引き起こされるのではなく、自分の内から湧き出る感情とそれを抑える理性との葛藤が「造り出す」ものだと思うからです。美しいものが抒情の起爆剤となることはありえましょうが、それが全てではありません。抒情は自分が作るものです。抒情という言葉、概念、感覚そのものは人間によって生み出されたものだと思うからでもあります。物質に食われてはならない、物質の中に本質は存在しない。存在しないことが物質の本質。(こう思うのも私がきっと物に固執する性格だからでしょうね)