tokyo.soraという映画があるんですが、その生身のようでどこかファンタジーめいた空虚さがくせになる。おそらくある人にとっては現実なのだろうけど少なくとも私にとっては日常の中にまず紛れ込んでこない分類の「日常」だ。でもそれで良いと思う。私が好きなのはその幻想だから。
花とアリスをもっと曇らせたような映画だったなあ。でもどこか澄み切っている。それが空虚さの原因かなと思いました。このDVDのジャケが青空じゃなくて曇空なのがそれをよく表している。

思えばこの空虚さを得たくて高校生の時の私は山本文緒ばかり読んでいたな。うん。山本文緒の虚無感が当時の私には心地よかった。「プラナリア」が面白かったな。でもある日「落下流水」を読み終わってから何故か気持ちが徐々にぐらぐらしてきてそのうち眠れなくなって酷い目にあった。それからはもう読まなくなった。ちなみに落下流水は読めば分かりますけど、嫌われ松子みたいな話です。女の一生。あと同じ類で、唯川恵が読めない。これは昔から読めない。ドロドロしてて怖かったから。生々しい描写だったから。

あの時私の中にぐらぐらしたものが現われた理由は、そこに存在する幻想が確実に現実世界の感触へと変わりつつあったから、なんだろうな。たぶん文緒が好きなわけではない。大人の世界を手探りして、触れたら手が痛んだから手をひっこめた。それまでだったのねと。ばかねえ。子供ねえ。そうですね。そんなことを思う。

こういう小説なんていうのは、あるよねそうよねみたいな共感を売りにしているものが大概なのに私は一体何を求めていたんだろう。
以前、ある人と「少女の本質は夢見がちなことに尽きる」みたいな趣旨の話をしました。ケータイ小説なんかはとてもわかりやすい例だねと。ケータイ小説は少女のリアルを売りにしているけど本当はレイプや中絶なんて大抵の少女の日常にはまず紛れ込んで来ない非現実的な材料だし、それがリアルな少女の姿として形作られていること自体が非現実だねと。少女の本質というか、少女趣味というのは夢見がちに走るものだからこその少女趣味なのだ。それが可愛いふわふわフリルおんなのこの世界であれ、セックスレイプなんでもありのバイオレンスな世界であれ、その本質というのは、何も起こらない平穏な日常から逸脱してドラマティックな世界に逃走すること、なのである。ケータイ小説の唯一の難点であり特徴でもある点はずばり「文章が稚拙であること」だけで、その中身は伝統的な流れをくんだ少女漫画にすぎない。

レイプや援助交際や妊娠中絶は衝撃的ではあるしそのような経験がある少女もいないことはないと思う。だが、それはケータイ小説に描かれた内容が「本物」の少女の姿であることを証明する材料にはならないのではないか。あくまでも「こういう人もいるのだな」であって「少女とはこういうものだな」ではないだろう。
だからケータイ小説を担いでいる人というのはそこに描かれた内容を虚構だと知って敢えて売りだしている人たちなのかなとも考えたけどそこまでマーケティングの人間が深読みしているのかどうかもわからないのでやめておくことにした。

また、ケータイ小説の本質と共に、私の鑑賞の仕方もおそらく少女的なそれに自然と沿っているものなのだと改めて感じた。夢見がち。ただ、私はけしてそれを否定的にとらえているわけではなく、むしろ私自身が自然体でいるために必要な条件だと考えています。だから消し去ることなどもってのほかだと思うし、私は別にジャーナリズムや自然主義的な立場に立とうとも思っていないので、思う存分に幻想を愛していきたい。

ちなみにtokyo.soraに内包されている幻想を私の思うところに述べてみると、

1.私自身がまだ体験したことのない、私よりもう少し年上の女性たちの世界がそこにある
2.女性がとても可愛らしい生き物として描写されている

という点でしょうか。

いや別に悪口じゃないし女の子は可愛いんだよ女の子ってだけで可愛いんだ(ry
失礼、とにかくいろいろな意味で思うところがあるのでお勧めです。この映画。

ケータイ小説なんか小説じゃないって騒ぐ人いますけど、ケータイ小説ケータイ小説というジャンルの読み物で、初めから小説ではないんだから別に騒ぐことないのにね。むしろ私はちょっと読んでみたいです。まあうんざりすることが確実に予測されてるんだけどさ。